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ドラゴンズ背番号に物申す

画像:足成

横浜スタジアムを吹き抜ける夏風は、一瞬にして日中の暑さを忘れさせるものだった。

屋外球場でナイターを観戦するのは一体いつ以来のことだろうか?

1996年(平成8年)10月、翌年からナゴヤドームに本拠地を移す中日ドラゴンズのシーズン最終戦を観たナゴヤ球場以来、実に21年ぶりか……。

幼き頃から中日スタヂアムそしてナゴヤ球場といった“屋根のない球場”に通った自分にとっては実に懐かしい夏風である。

ハマスタ特製のクラフトビールの美味しさに驚き、場内カメラが観客を映し出しアナウンスで“いじる”演出に笑い、横浜DeNAベイスターズのオフィシャルサポーティングガールズ『diana(ディアーナ)』に合わせてスタンドで踊る子供ファンに圧倒され、そしてスターティングメンバー発表。

先攻であるドラゴンズの先発メンバーを見ながら思った。背番号の数字が重い……。

今シーズンに入って、ベンチ登録メンバーを見ると、内野手が荒木雅博選手の“2”の次がいきなりA・ゲレーロ選手の“42”となっていて驚いたことがあったが、横浜スタジアムで「京田、谷、大島、ゲレーロ……」と読み上げられる選手の背番号の大きな数字をあらためて実感した。

この試合のスターティングメンバー8人(投手除く)の背番号の合計数は“334”だった。最も小さな数字が藤井淳志選手の“4”、最も大きな数字が谷哲也選手の“70”。

ドラゴンズの中心選手の背番号について、選手の名前が入った応援歌『燃えよドラゴンズ!』から振り返ってみたい。

20年ぶりにセ・リーグ優勝をした1974年(昭和49年)、最初の『燃えよドラゴンズ!』で歌われた、1番の高木守道選手から始まり、谷木→井上→マーチン→谷沢→木俣→島谷→広瀬と続いた“伝説の”スタメン8選手、その背番号の合計は“67”である。

“野武士野球”を旗印にセ・リーグ優勝した近藤貞雄監督の1982年(昭和57年)は、最終戦まで首位打者を争った1番の田尾安志選手から始まり、平野→モッカ→谷沢→大島→宇野→中尾→田野倉、これで背番号合計“133”。このときに背番号“57”だった平野謙選手は翌年から背番号“3”に変わるので、そうなると一気にマイナス54で“79”。

落合博満監督の下で、球団初の連覇をめざした2005年(平成17年)は、2000安打を今年達成した1番荒木雅博選手から始まり、井端→立浪→ウッズ→福留→アレックス→森野(井上)→谷繁という8選手で背番号合計“95(96)”。こう振り返ってみると、いかに今季、一軍のゲームで出場している選手の背番号が大きい数字かが分かる。

誤解してはいけないのは、背番号の大小で選手の活躍が決まるのではないということ。代表的な例はイチロー選手で、“51”という数字を背負い続けている。

この夜の相手、ベイスターズだって田中浩康選手“67”、首位打者争い中の宮崎敏郎選手“51”と大きな番号を背負っている。当のドラゴンズでも野手で今年最も目立っているルーキー京田陽太選手が“51”なのだ。

それでも、やはり野球の場合、グランドには9人、“ナイン”と呼ぶのだから、背番号は若い数字に注目してしまう。

ドラゴンズの背番号の系譜を見るにつけて、ここ数年は、期待されて若い数字の背番号をもらった選手、またはドラゴンズ栄光の名選手背番号をもらった選手が活躍できていない。長年ドラゴンズを愛し続けているファンの立場としての思いであるが、ファンは好きな選手の背番号の入ったユニホームやタオルを買って球場で応援したい。

その数字は分かりやすいものがいいし、伝統の名背番号がいいし、もちろん必ずゲームに出場してほしい。せっかくその背番号グッズを買った選手が、時々しか出場しない、ましてや一軍ベンチにいない。こんな状態ではファンはやりきれない。

今年のシーズンオフには既存番号のシャッフル含めて、ドラゴンズには大胆な背番号の再編成に期待したい。

ハマスタ観戦でもうひとつ印象に残ったことがある。山崎康晃投手含めてリリーフ投手が打者に投げる直前に、球場全体に自然に巻き起こる拍手。それは応援団にリードされるのではなく自然にハマの夜空に響き、ベイスターズ選手を温かく包み込んでいた。

シーズンも残りわずか、依然として竜の苦しい戦いが続く。ファンとしてアウェイの球場に身を置きながら、3塁側ベンチに熱い思いを送る……ドラゴンズ頑張れ!

【東西南北論説風(6)by CBCテレビ論説室長・北辻利寿】

 

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※ 足成